2025年5月11日日曜日

縞馬家集の棚 7 我百首

 

[我百首]

わたくし双紙


1997.10.310.25 制作

 

1997.10.3
 

ふりかへることはかつてのわが肩にあたたかき湯をそそぎやること

 

くらき日のわれ目をあげよこのわれがおまへのそばにたちてをるゆゑ

 

かのときは思ひ出されるたびごとにくるまれとほくとほくなりゆく

 

わたくしを深くかなしむ井戸あらば水のごときを汲みたきものを

 

踏みいれてみる秋冷のにはたづみいよよ澄むとはゆめおもはねど

 

昨日は箱のごとしもありあけにゆめを組みたてゐたりけるかな

 

そのあたり感情の雲うつろへばつよき線もて描きとめたり

 

劉生の自我をさがして劉生のゆたけき尻にゆきあたりけり

 

三千世界のうからを殺しやうやくあをくあをく見ゆるあをぞら

 

大きなる袋にわれを封じこめ空にとばしてみたらどうだろ

 

わたくしがわたくし宛に出す封書ふたたびひらくことのなき河

 

すこし待つてどう食べたつてあさましい食事をすませてしまふまで待つて

 

山下の噴水までは如何でゆくきみはメトロゆわれはも徒歩ゆ

如何で=いかで 徒歩=かち

 

わたくしといふわたくしをひとりづつたたきおこして生涯終はる

 

大好きなことがあるぶんそのほかはだんだんいやになるわね日暮れ

 

1997.10.4
 

歌かるた下の句あはれああわれはあはれあはれと過ぐしてよとや

 

にんげんをみてゐるときはにんげんに空をみてゐるあひだは空に

 

白黒ははつきりしててでもそれがめまぐるしくて灰の一日

 

わたくしがわたくしであるそれだけのために野菊や神を欲りせし

 

われおもふゆゑにわれあるそのゆゑがあなたとわれの谷間のみどり

 

うす雲がまひるのそらにもぐりこむきもちのからだシャツを着がへる

 

わが鼓動海ゆ来たりてわがうちに海をひろげてあたたかくする

 

さきゆきをあたまにおけば梅もどきいまのわたしがいちばん若い

 

すきなのを順番に出すそのうちにきらいなものが出てくる袋

 

一か無か氾か論判さりながら一か八はた丁か半だよ

 

1997.10.5
 

わが胸を葡萄畑にたがやして秋の夜頃の雨を受けたし

 

とほくからちかづいてくるその顔がこひびとといふ記号になるまで

 

弓と矢にたぐへられにきわれは矢にたぐへられけむ離れ来しかば

 

矢のごとく泳ぎきたりて満ち足らひわれの視界にしづくせしかな

 

ゆるやかな河がわかれてゆくときのわだかまる水としての私

 

秋川を流れふたすぢならびながれどこまでもつめたくならうよ

 

水流のごときかなしみといひしかば川面は雨に満たされてをり

 

わたくしはわたくしがすき ときどきは云つてみないと忘れてしまふ

 

両腕でかかへきれないトルソーをばらばらにして光にもどす

 

をみなごのこゑ弓なりにのびてきてうつくしきかな架橋せりけり

 

1997.10.6
 

わたくしを雲にたぐへて大空に放てよ見よや皿などになる

 

雨傘や鞄や帽子それやこれ一日分のわれを携へ

 

これまでの知人友人ひと束の輪切りのひとつひとつわたくし

 

アグリッパとふ羅馬の親爺を描きゐしが亜細亜女のわれにぞ似たる

 

われどこにめえつけとんぢやといふときのわれは汝なり日本語のわれ

汝=なれ

 

いまわれは秋にをりしか心底ゆ珊瑚樹を焚く煙たちたり

 

かかへこみかかへこみしてきたるのみさくやのわれをけさのわれもて

 

信頼の塔は塔たれどこまでも届かざるとも築くがよけれ

 

しろがねの秋のながれを容るるため深きくぼみにならむとすらむ

 

秋口をながむといへばこの角度うつむきかげんを斜め上から

 

1997.10.7
 

万に一つあなたの鏡像かもしれぬわたしであればあなたをさがす

 

いにしへのもの思ひびとのなれの果て“ゐないあなた”といふ名の都

 

街角が肉体としてたちあがり“うそつき坂”の腕はゆるやか

 

みづがねの重きことばをたまへかし昨日のやうにいま一度二度

 

夜の秋かがやきそめついましがたわがよぎりしは瞳のほとり

 

水底ゆひそかに浮かんでくるごとき町の名なればかぐはしきかな

 

なにひとつなさざりしかな冠のかたちに町が灯りゆきたり

 

思ひつめおもひつめして羽根枕ふかきがなかにわが頭を埋む

頭=づ

 

むなうちにきよきにほひのたてりけり記憶の奥の草の折れしか

 

ヒマラヤの雪に生まれてしまらくを熟寝欲りせしわれかありけむ

熟寝=うまい

 

1997.10.8
 

大羽根のことばをかさね日をかさね逢ひかさねざる手をかさねたり

 

ほねぐみのゆがみあらはにいつくしき廃虚の虚にか我はあそびし

 

1997.10.10
 

かのときの思ひを水にたぎつ瀬に転じて我の肩をうちたし

 

なにを待つといふにあらねど滴滴とみちてゆく音こころの壺に

 

秋ふかみ闇にしあればかすかなる光のつよきちからに出会ふ

 

1997.10.12
 

おほぞらの青がきしみて割れむ日のほのかなる音をわれとし云はむ

 

旅するといふは封印するごとしいちど旅したところはどこも

 

真昼間の壁とふなほきちからもて秋のひかりのたちあがりたる

 

秋空の黄なる光のきよらなる斧さつくりと割を入れたり

割=かつ

 

ふるさとがひかりの奥ゆ生れしゆゑひかりはとどくわが奥底に

 

1997.10.13
 

秋となれば秋の光に擬態するならはしわれは空を模したり

 

流れおそき巻雲としてうごきたし彼方に覆ひたき町がある

 

目蔭してややありてのち黄金の蜜のひかりを手にしぼるなり

 

いにしへの光に眸はありけむかありきおそらくその視野真闇

 

ひろごれるそらの器に白き斑の雲てふにごりあればぞ深き

 

1997.10.15
 

目をつむり光に落ちてゆくわれや視界の闇を莢となしつつ

 

朝なさな土に光の起きあがり影を着われを着わたくしを着る

 

松風の音とほくある薄明にわれはやいまだ胞衣を出でずも

胞衣=えな

 

しらしらと屍衣にくるまれをりしかば空が降ること怖ろしからず

 

うすらひのうすきはらわた解けゆけど死んで死なざる水のたましひ

 

1997.10.16
 

たましひの家を思へどたましひの父母は思はず糸杉の谷

 

いづこより来ていづこへと帰るべきわれなるや嗚呼いづこよいづこ

 

かろくあれ能ふるかぎりかろくあれ水面さへすら傷つくるなく

水面=みなも

 

悪人でなほなく善人でさへなく明日蜉蝣になれるでもなく

蜉蝣=かげろふ

 

呉春の催馬楽「炭」を読む

雌櫟のあはれや「なにを燃ゆる思ひ」燃ゆるのみなり触れられもせで

 

1997.10.19
 

呉春の催馬楽「酒」を読む

「新搾りのにほひよしや」にほひたり花も紅葉も失せてののちを

新搾り=にひしぼり

 

あらかじめほろびてゐたるまほろばのどうしてほろぶことがあらうか

 

母国は列島の弧をよこたへてむくろとなりぬ脱ぎて来しかば

母国=ははぐに

 

大和島太き真弓を海原に置きてや父は帰りたまはず

 

百千度かへりみすれどまほろばの大和はつひに父母を出でずも

百千度=ももちたび

 

1997.10.20
 

わが心すがしくあれよ羽根生ひてきみがめぐりを飛びてしあれば

 

のどもとをあふれむまでの湧き水のわれは忘れ井きみが深野に

 

たましひに翼のあらば飛ぶ鳥の明日香あしたのかをりよからむ

 

をとつひは深井きのふは庭潦けふは泉となるこころかな

 

生まれ落つとふ明らけきことばもてひとは生れにき風凄きなか

生れにき=あれにき

 

1997.10.21
 

なにせむと来しにはあらね今生の誰がふところのひとひらわれは

 

のちの世はましろき鳥になるもよし空の真青になるもまたよし

 

わが影の胸のリボンに書かれあり「なにゆゑわれを生かしたまふや」

 

よろこびといふともしびが死の影を映せるなかによろこびきはむ

 

すこしづつ顔を見知つて挨拶をかはせば終はり死とふ隣人

 

1997.10.23
 

なんぴとをあやめたりともみづからをあやむるなかれ水に流れよ

 

みづからを恋ふるといへどみづからをあやむるほどは恋はざる泉

 

おのもおのも天降ることばをよろこびて或るものは黄の黍になりけり

天降る=あもる 黍=きび

 

神ひとり潰したまひて賜べける五穀のうちの麦を食べり

賜べ=たうべ 食べ=たうべ

 

浄水のしづけき顔をはぢらひて水は争ふその文字のなか

 

1997.10.25
 

亡きひとのための祈りのつらつらになんぞ己のかくもいとしき

 

感情のひときはしろきひとところこれは怒りといふひかりらし

 

わが怒りかそけき昼を遠つ国印度尼西亜に燃ゆる家影

印度尼西亜=インドネシア

 

たちあがるつかのまつよく訴ふるちからに満てりわれのうつし身

 

わが腕ながけくあれよありしあるあらゆるわれを抱かむがため

腕=かひな

 

──我百首 了── 



©1997 KOIKE Sumiyo

公開最新

歌と漢詩を巡る小文

切片少々