縞馬家集の棚 5 雨百首
雨後の窓[雨百首]
1997年6月15日
うちよする雲のなぎさのしぶきかも額にかかるこの雨かろし
松の葉のにほへる針のつかのまの雨とことはにあたらしくふれ
白絹の雨の練り糸国境に沿ひてを行かな天路なすまで
国境=くなざか 天路=あまぢ
なほくらきあかとき雨のまぼろしの四肢過ぎにけり大屋根の上を
右腕がただまつすぐにひきおろす雨の垂線地に届きけり
闇にふる黒髪にふる海にふる波のうちらにふりそそぐ雨
ただむきのしろき Juno ならねども雨の甘噛み受けつつわれは
† Juno =ローマ神話の Jupiter の妻
とほぞきてゆく影ひとつふる雨の白き歯並みに砕かれにけり
ふりつづくならば日ながくふりつづけ雨につながる恋なればにや
石に落ちて雨粒濃ゆしつらつらと石の肌へをながれゆきたり
1997年6月16日
あまつさへ雨のふりだす芥川なににこたへて消なましものか
小半時ひらきたるままありふれば雨後にはじまる『勢語』六段
よしゑやし傘はなくともみちゆきの愚行をつつみふる雨あらば
STAEDTLER 4Bでひく粗き雨濃きぞつもりて闇に入りゆく
† STAEDTLER =鉛筆の銘柄のひとつ
大河に脈脈とふれふとき雨きみ住む町につづくと思へば
ふりそむるそのさぶしさの朝の雨 Coca-Cola の缶を打ちたり
速雨にならばや松の心根をうがつほどふる雨にならばや
細雨を編んで籠なすたぎつ瀬に夏とふ嫩きもののまどろみ
細雨=こまあめ 嫩き=わかき
荒布の珈琲店の窓の雨同じやうには二度と降らずも
やがてふる雨のしるしに焼きたての麺麭のにほひのけものめきたり
1997年6月17日
宵闇とともに降りきて深むのみ遣らずの雨を言はでの長雨
長雨=ながめ
村雨にひらく小路のあらばこそそこともいはぬ恋もするかな
雨がやよ花の父母なら風はそよ花のはらからいちはつの花
かげろへるわが蜻蛉島葦原の水無月ながく雨のふる島
蜻蛉島=あきつしま
地を敲く雨の思ひは然らぬだに闇にぞつのる思ひなるべし
なにしかも鎌倉山のふかき傘人に知られずふる雨もがな
雨の種子天の原よりこぼれきて雨の原をば茂らするとや
雨粒は此はなんの種つぎつぎと水面にひらく一輪二輪
天彦の訪ひを待つひと張りの傘ひろらかにひろげてひとり
傘なくば心ゆくまで浴むるまで空ゆふりくる雨のまなざし
1997年6月18日
明けてなほくらきままなる胸裡や雨にぬれたき路地のあるべし
うちつけに降り出る音のいや高に雨よすべてを遠ざけてふれ
垂乳根の雨はわが口わが眸を覆ひふたぎて羞しかるべし
羞し=やさし
母の字を打ち毀ちてぞ雨とせし石工ありしかいにしへの野に
毀ち=こぼち
とほき世のわが籠もりくのわたくし野 uterus の野に雨ぞあまねき
† uterus =子宮
ひさかたの天降ることばを聴きたけどあはれ雨つゆ澄みとほりたり
雨傘の盃あまたうちふしていやしとどなる甘露酌まずも
台風が来る
南の海ゆ素戔鳴たちぬらむその裾の辺を雨やしたたる
素戔鳴=スサノヲ
いかづちの空の大路を駈くるべし雨の流れのとどろきは馬
描線の細雨の午後や胸像の翳深うしてたちあがりたり
細雨=さいう
1997年6月19日
その臍をあふれてきゆる雨のつゆ桜桃の実に澄みにすみたり
臍=ほぞ
雨やんでくらくなりゆく昏方やしろがねなれど輝かずけり
霧雨の奥処にさめく竹群の静けき色にちかづきにけり
みなぎらふ足り夜であれよ雨覆ひうつくしうして飛ぶ鳥あれば
言置いてまた次の言置く間を鋭き雨と思はざらめや
言=こと 間=あひ
1997年6月20日
「こんひさん、したかとですが」雨音を圧して張りたる稲妻の声
† こんひさん=きりしたん用語で confession の意
稲光一斗吐き終へ止む雨の止むまでの動羨しきろかも
羨し=ともし
嘘ひとつなしといへども雨催ひ二度試みてひらく番傘
雨筋の大風の壁厚ければ門扉をさぐりながら進めり
この風はいづこへ向かふ私信ぞもちひさき雨の礫まざりて
1997年6月21日
西方に雲はなけれどわが心雨ふる場所のきみを離れず
天雲の野に萌え出でてうちなびくなほやはらかき細雨の穂先
雨の弦をつよく張りたる空の胴抱ふるまでもなく鳴りそめつ
少量の雨を残して去りしのみ若葉混じりの髪の風神
涙堂の膨らみをもて崩れざる雨しづくかも青葉の上に
1997年6月24日
存分につゆをふくみて崩ゆるかなうまし実雨中のねむりといふは
崩ゆる=くゆる
うたがふもおろかにあをき空の下に次なる雨をうたがはずをり
敷島の長き雨とは昏昏とねむりにねむる大きな女
雨ふれば雨のながるる路地裏を尾のふとき猫歩みをりけり
口開くたびにあふるる雨つゆを母語とするかな雲の連邦
1997年6月27日
雨あひにあます四十首や如何八大竜王雨休みすな
如何=いかん
虹ほどの逢ひを小雨にゆるされてはかなかるべし太陽の恋
わが祈りやや待ちたまへ cantabile 片手に傘といふ神がゐる
† cantabile =器楽曲の発想記号。「うたふやうに」の意
谷深く雨はのこりて岩蜜のかそけき光を放ちたりけり
流るれば行方も知らぬ庭潦嘆きの沙汰も止みにけるかも
1997年6月28日
一斉に垂れ下がりくる雨のゆび地とむすびかつ天と切れたり
少年の胸分けにかも大河の水あふれたり雨濁りして
ながく曳く雨のしだり尾あしひきの山鳥の棲む山はもいづち
なにもかも赦すしるしにふりきたる雨かもただに降りしだるなり
おのづから雲に滲みてしたたれる雨か光を模写してやまず
1997年7月6日
待つといふほどもなく待つ少量の雨やかそけき異変の報や
雨ゆきのほかなにが降る天つ空飢ゑてひとのふりあふぐとき
飢ゑて=かつゑて
雨音のすは訪れかいなやそは乾ききつたる小枝の葉擦れ
藁ほどの雨を集めて編めよかし重くれ verse を押し流すまで
† verse =韻文
炎熱のきはまりしかば太陽の溶けて消えつも今よ雨ふれ
1997年7月10日
やうやくに曇りそめたるこの今を隘路に落ちてくる雨五本
雨垂れて小さき水房つぎつぎにあたらしく吾が渇きぞ生るる
追ふものと追はるるもののなまごころ川面を踏んでゆく雨の足
真少女の傘の好みは男物つよくてやさしき人になれかし
雨雲の暗まぎれにぞしづやかにかたまりてをり塩壺の塩
遠雷の長鳴りにかも呼ばれたる心驕りの雨こそよけれ
雨とともに人の降り来し合印しづくの尻のまどかなるかな
百千鳥さへづる声のみづみづと風に満つれば雨降りそむる
雨やんですこしやすんで雨降つてさてさめざめと泣きはじめたり
雨の譜をうたへば声は蔓草に変じて瓜をみのらせるとぞ
1997年7月17日
茅花ぬく浅茅が原の秋成を読んでの翳り翳りての雨
家居して雨待つ人となりにけり後ろ姿で世を過ぐしつつ
うたたねのゆめをさまして止みにけむ雨か敷道浅く汚れて
小鋏に雨を剪る音あまたたびするをし聞けば鳥の啼く声
雨粒を描きてゐしが白銀になり水銀になり戻らざり
白銀=しろかね 水銀=みづかね
光琳の雷神をすら思へども雨は降らずきこの七日三日
風神を思へば彼はつよく吹き雨雲をさへ払ひたまひぬ
雷神と風神のゐる金箔の屏風の空に雨条もがも
雨雲のなかに暮らして糠雨の一粒だにも得ざるこのごろ
ひつそりと湿りばかりがふり積もり光も雨もとどこほりたり
朝つゆを帯びてひらけよ雨の花空いちまいをはなびらとして
汕頭の刺繍好みの麗人が片笑みすらし雨無し雲に
汕頭=スワトウ
雨雲が空を覆ひて降らざるはひらきつぱなしの書物にか似る
いづこにか降らぬ小雨のありとせば不在の神の住処あるべし
住処=すみど
小糠雨待つか待たぬかつばくらめ涼しき風をまづはくぐりて
────雨百首 了────
©1997 KOIKE Sumiyo