縞馬家集の棚 11 空百首
1998.7.4.朝わが裡に漏斗のごときものありて空をあつめて渦になしたり漏斗=じやうご おほぞらのもとに生まれておほぞらのもとにめざめてわれはそらならず あけがたに視しゆめはこれぐいぐいとひろがつてゆくにごれる大虚 昼投身をくりかへしゐるわかもののごとくに雲は浮きておほぞら けふ空はみなぎる牛の乳にして搾らばぬくきものの降るべし 夕たそがれのためにそろへし色ならめ空の悲哀の緋いろ藍いろ “恩寵の黄昏”つてやつがやつてきて籠の薬を空けてゆきたり あのふかき傷口がその傷口の由来を語るその傷口で 夜うつすらともりあがりたる創痕をくづさず雲は進みをりけり 草創といふことまこといたましく月の利鎌が空うちはらふ草創=さうさう ● 1998.7.5.朝投身をして済むならばよからむにかそけくにほふ雲のうつしみ かつきりとせるあをぞらが欲しきかな刃のかたちして雲つきすすむ 朝彦が来て空彦をうちたふしいちまいめくるときの痛みは まなぶたはおのづからあくおのづから朝とふゆびがさしこまずとも たましひは永遠にああ永遠にくさりつづけて空の色素に もしやもし空が泉であるのならよろこびは降りよろこびは湧く 深くまでひとを愛する空なればひとつの雲も抱かぬと申す 亡きものは空にのぼるといふ嘘を地上はじめてつきし人はや 蒼空に陰惨の字がふさふとはそれはまたなぜ父よ続けて 殺戮は青空を背にするものよ映りあふ血のいろ空のいろ ● 1998.7.6.昼もの殺すゆめよりさめてもう一度空に入りゆくごとく寝ねたり ふりあげてうちすゑるとき野茨の刺ひとつづつ空を背負ひぬ 創世記五頁の野のあにおとと其の日のなんと晴れてゐたこと 青空の下にてあれば大地にながれゆく血は影かとおもふ大地=おほつち 昼の空ひかり深くて野の石のひとつひとつにいろ濃ゆき影 かくも空は晴れて彼奴はかくまでもあかるし吾を影とならしめ彼奴=きやつ みひらきてかわきたる目がわがうへにありぬまたたきたまふなよゆめ 大虚はかわききつたるのどぼとけ血をはなちてもうるほすべしや いましがた扼せしもののその影があをぞらを得てたちあがりたり 大空はふかき虚もつ佳き楽器太陽がた、た、たたいてわたる虚=うろ ● 1998.7.7.夕夕さればひしめく雲のむらぎもに心なる陽はふかぶかと入る 全身のくるまるることうれしくて陽の入りぎはをみとどけて来つ 黄昏の澄みたる蜜をめがけてぞ飛べり一日といふうすき翅 夕映えのひかりに顔は濡れながら笑へり人の首またかうべ首=かうべ たれもたれも水として其にながれこむ大きな壺の銘は“たそかれ” 出奔は朝の風物逃亡は夕の景物いづれぞ愛しき愛しき=はしき 夕空の痛し痛しといふこゑを美といひならはして過ぐす人はも 陽が胸のたかさまで来てなにごとか言ひさうになりしづんでしまふ あの円き陽のなかにもし人棲まば奔る炎をことばと呼ばむ 夕闇の大き手が吾をつかむまで剣の柄の吾をつかむまで柄=つか ● 1998.7.14.夜宵闇が来てなにもかもぬりつぶすひともしごろのひとごろしをも 夜されば殺意ひともと収めたり空の真闇をその鞘として すべてすべて真闇の波がさらひにきさらば熾せよ人の火種を そのとほり女は大地でしかも海 天の汚物の闇を容れたる ふりつもる闇にまぎれてゐる虫はそれまぎれなき男の骸 闇闇とゆびのいつぽんいつぽんが空のからだになるよふけかな 星の棘厭へば空にとめおかむ星のかはりに雨をふらさむ 夜はゆるす夜におこりしことどもを闇がゆるすといふものだから 闇はゆるす闇にかくれしことどもを夜が知らぬといふものだから 闇と夜があひたづさへて去りゆけばこどものごとくのこることども ● 1998.7.20.朝空は晴れてかわきてをりぬわがねがひかねてのねがひ容れてほろべよ 暁闇を産み出ださむといきみゐる地平の顔をみて過ぎにけり 雲脚といふ猛きものありありてまろき朝日の捻れ出づるも いますこしうつくしくあれあれかしと国原にいふ朝空がいふ 大空の眼をくらくせるものはわがたましひのほろばぬぶぶん 虚の器胸に抱きてなに恋ふといふことなくておほぞらわれは器=うつは 弦を置けあの虚のうへにおほぞらに置きて夜までかきならすべし 空は海を海は空を吸ひこんで雨の銀貨を贈りあふかな これやこの雨はまことのしろがねか大空は噛む積雲の歯で あたたかく笑みかはしあふ夏の日の嘘のおほぞら偽りの海 ● 1998.7.25.昼あふむけに空をあふげば喉より泉のごとく悲鳴あふるる喉=のみど 昼なれば陽は天心にそのやうにただのいちども生きしことなし 大地を空が覆ひて塞ぎをり生きて死ぬとはそのやうなこと この屍なにゆゑ大き石抱いて空をみつめてをらるるのかの屍=かばね 屍の胸門に大き石を置き空へ帰れぬやうにしたんさ屍=しかばね 胸門=むなと これはこれはまだ生きてゐる屍ぞいまのうめきは空耳なりや 空耳ぞよくご覧じろこの屍喉の奥まで石詰めてあり げにやげに屍の耳に草萌えて空にむかひて葉ののびるさま このをみな屍ともはや呼べずなり大岩にして空の底なり あふむけにあふげば空の奥処より悲鳴のごとく青の涌きたり ● 1998.7.27.夕盤上に歩兵一駒ころがつて王よこたはる夕暮らしさ たたかひは了はりましたよ 夕映えの透けるゼリーに匙刺しながら ああすべてすんでしまへり夕焼けの焦げきはまれるピッツァを割いて 夕暮れの女盗賊頭かな殺した数だけ産めばいいのよ 殺戮の原野にのこす産み立ての嬰児無数の夕茜顔 あのときにあのビショップが邪魔をして夕闇ゆるく流れそめにき 王を刺すために女王がのびあがる ゆふぐれどきの影のはやさで 譜を読んでなぜ負けたのか考へよ雲のかたちが変はらぬうちに ああすればかうなるといふことはさうあるもんぢやない黄昏将棋 みづからの血のあふれたる浴槽にゆつくりと身をひたす太陽 ● 1998.7.28.夜ひかりよりするどかりけり宵闇にすれちがひたるひとのぬくみは 夜の空をゆれる吊り橋ひしひしと女のどこが怖いんだろね この宵は星もながれず宗達の雲がくるしみながらうごけり しづかなるいきものとしてある空を毛孔すくなきひふとぞおもふ なにもかも白紙にもどすそのためにまづ真つ黒い夜になりたり 息とめて牛乳をのむ果無癖すなはち夜の雲はやきかな果無癖=はかなぐせ 牝馬を追ふ牡馬や白雲が夜をながれて夜がながれて みなさまをもれなく夜へご招待いたしますゆゑ案じめさるな 磨墨を流せば空に黒馬の群かぎりなくはなつここちぞ磨墨=するすみ 雲の山たかきをなだれおりてくる馬の群かも夜のいかづち ● 1998.8.1.-8.20.朝蒼空に浮きて流るるつばさぐも昨夜の天馬の此れ忘れもの昨夜=よべ 苛烈なる人生はそよ他人事厚雲をもて湿布する空 大空を掴みてしぼり出だすべき果汁たつたの太陽一滴 昼夏深み影深み影窖をなし地下へ降りゆく階をなす窖=あな 階=きだはし 夏空が足裏となりてまひるまの音ことごとく踏みつぶしをり かそかなる雲もうごかずひそかなる欲もうごかず夏はくるしゑ 夕夕さればさういふことにしてしまへすべては如是不如意と如是不如意=カクノゴトクフニョイ 目のちからもてかなしみを掘り起こすゆふべいよいよ空ふかきかな 夜あはれながるる雲のいろかずかぎりなく一夜の歓の一夜とはなに 夜が空を空を夜が貫きてゐん今し旅する阿頼耶識かな阿頼耶識=アラヤシキ ● ──空百首 了──
©1998 KOIKE Sumiyo