2025年5月6日火曜日

縞馬家集の棚 4 酒百首

 

酒百首

sake hyakushu

 

1997522日~526

                             *引用句はすべて久保田万太郎


遠近の灯りそめたるビールかな

 

とつぷりと暮れたる町も汝が胸もいづれ麦酒の落ちゆくところ

 

汗あえてしとど酔ひてし父の香をビールの香とぞ思ひたがひき

 

馬手にこそ大ジョッキあれ夕狩の粗き手綱をつかむごとくに

 

卓上に麦酒を置いて嘆くとも泣くはふさはず君つぎたまへ

 

藁積んでちひさき庵をあむごとしビールの酔ひをたとへていへば

庵=いほ

 

あれを見よビール一打は載せざれど一打のみほす細舟をんな

                          † 一打=1ダース

 

胸におよびのどにやおよぶかなしみのビールの樽とわがなりはてし

 

ジョッキなる麦酒の泡の力感のうつくしければくちもておほふ

 

さがし人ここにぞねむる大ジョッキ林立の果てとほく隠れて

 

生ビール泡立てて注ぐ細心を詐術とばかり人こそいはめ

 

ビールジョッキの泡もしこれが雲ならば黄金の空を鳥は飛ばうよ

 

十本の麦酒かかげて駈けあがるこの簡明を男といふなり

 

いかやうに響かせたらば美味からむキリンラガーのガの強弓は

強弓=こはゆみ

 

ビール置いて大き父親こどもらに枝豆鉄砲食はせをりけり

枝豆鉄砲=えだまめでつぱう

 

乾杯ののち見合はせてたぬしきはビールの泡の髭のありなし

 

かくもにがきビールがなぜにうまかりし渇くといふは怖ろしきかな

 

のみほしてふとも発する一声は麦酒落下の悲鳴なりけり

 

ジョッキ手にうたひてをればともしびをかかげて人を呼びゐるごとし

 

おそらくは一生解けざるままならめヱビス麦酒のヱの字の不思議

一生=ひとよ

 

夏近し厚きガラスの壜よりぞ麦酒の泡のほとばしりたる

 

1997/5/22

 


 

春色やオールドパーの半ばほど

 

来し方の壜の並びやサントリー白・角・達磨・達磨・角・白

 

とりだしてまたしまひこむ大疑問ウヰスキーのヰいかにか読まむ

 

ウイスキー・ボヘミアグラス・アイスキューブ・ミネラルウォーター「マドラーは何処」

 

ウイスキーその色といひ壜といひどこもかしこも親爺の好み

 

亡き父の棚にしまはれ黴びにける洋酒七本地にそそぎたり

 

ブランデーグラスといふはいろいろなものを容れたくなるかたちなり

 

バーボンの小波に唇は寄せながらくしやみ放てるきみタンタロス

 

なにごともなかりしごとき顔をしてゴードンドライジンのすずしさ

 

ウオツカは実は花嫁わたくしねどんな色にも染まりましてよ

 

ジンフィズにむせながらいふさやうなら云ふにやおよぶ泣くにやおよぶ

 

マティーニのオリーヴのごときかなしみを知るも知らぬも逢瀬を渡る

 

松かぜの音のさめきをのみどまで詰めにしジンの薄型の壜

 

肝臓に強弱あれどそこはそれ神のごとくに酒やどりたり

 

ウオツカとふ火もて鎮めむ炎なる露西亜男がかがやき踊る

 

いますこし酒を注げよその人はあと一滴で咲くはずの花

 

割れぬ壜乾かざる酒なくてよしいつかは消えてゆくもの同士

 

モスクワやゆめの都のかぎろひのモスコミュールがグラスに残る

 

ひと杯のソルティドッグ舐めたれば塩のからさと犬のかなしさ

 

天のいと高きところに地のかくも低きところに呑むところあり

 

然は然はと夜を流るる深き川酔ひのささ波酒しぶきかな
然は然は=さはさは

 

ブルースにたぐへし酒は何ならむバラッドはこれ手のなかのジン

 

酔ひながらいよよ覚めゆくうたほがひわれは寝ずの身ジンは杜松の実

 

1997/5/23

 


 

冷蔵庫あけてまづとりいだすもの 

 

うつそみは夏を欲してゐたりけり酒の小滝に口漱ぐため

 

端麗であらうがさうでなからうがともあれ酒は冷やしおくべし

 

呑み口の佳さをもとめて鈴なりに増えてゆく猪口一里におよぶ

猪口=ちよく

 

ゆびほどの酒精はだかで歩みきてかかり湯をして盃に入る

 

しろがねのつるぎにあらねしろがねのつるぎのやうな酒を容れたり

 

水晶のとけたるごとき冷やし酒ふふめばあはれしらたまとなる

 

さかづきにいま注ぎやらば音たてて砕くるまでにひえてゐる酒

 

雪催ひはげしき土地に生れし酒雪後のそらのごとく澄みたり

 

酒壺となりてしこころ夜を深み冷えゆくほどにいよよ澄みゆく

 

小咄に蕎麦清がゐるその伝で酒清がゐて流るるごとし

蕎麦清=そばせい

 

おだをあげまたくだをまきだだをこねいやだいやだとわめいたさうだ

 

お銚子の林を抱へ山動くごとくに女給仕来たりぬ

 

徳利が哺乳壜にぞ見ゆるまで酔客にほひをたてて眠りぬ

 

「夏浅く盃浅く宵浅くなんでふ深まる仲と仰すか」

 

「浅きゆめ浅きほほゑみ浅き酔ひ深まるほかはないものばかり」

 

澄み酒を啜れば小雨喫すれば雪降る空が身もなかにある

 

言ひたくて言はずにおいたひとことのごとかる猪口を手で囲みたり

 

にんげんが冷たいさうな酒のんでわがにんげんをあたたかくせむ

 

銀漢が天の河なら酔漢はなんの河ぞもまたいで渡る

 

酒呑んで水に落ッたる向うみず唐の李白と漱石の猫

 

1997/5/24

 



  

梅雨ふかし猪口にうきたる泡一つ

 

先週の星の写真のうつくしき新聞紙もて酒壜を巻く

 

泡沫のシャンパングラス返せどもアワーグラスのやうには返せず

                          † アワーグラス=砂時計

 

韓衣着るまでもなく韓の国濃ゆき“眞露”のなつかしきかな

                    † 眞露=JINRO。焼酎の銘柄の一つ

 

「猪口これはゐのししの口ゐのこなる豚の口とはいはぬよしなし」

 

「猪口これは当て字にてありもとは鐘ほら小ぶりなる鐘のごとしも」

 

「大鐘をさかさまにして酒を注ぎ呑まする仏事なかりしものか」

 

「大鐘は大仏の猪口かるがゆゑ一杯収まる手つきにおはす」

 

「灌仏の甘茶は甘露であらずとも“眞露”であつてなにわるからう」

 

釈迦如来とは酒如来彼岸から酒が歩いて来るなむあみだ

 

五月雨の今宵の酔ひははやき川うそもまこともながれてしまふ

 

深酔ひの熟柿なりしが今朝青きしぶがきとして出直す所存

 

葡萄酒の一升瓶を傾ける風鐸を抱く風のこころで

 

葡萄酒といへば赤玉ポートワイン昭和日本降誕祭よ

 

どのぐらゐ続いただらう黴くさき茶漉しでいれるワインの歴史

 

このやうな苦労してまで抜くほどのうまきワインと思ふなよゆめ

 

コルク栓ぼろぼろなればその晩のうちに飲むべきワインなりけり

 

壜かるく栓あけやすき日本のワイン398

 

祝ひ事あれなそれまでしつかりとドイツワインを棚に立たすも

 

「赤ワイン飲めば長生きしますです。」ボルドー大学研究発表

 

舶来の嗜虐しぬばゆシャンパンの栓の針金ワインの栓抜き

 

1997/5/25

 



 

飲みくちのかはりし酒よ冬籠

 

“酒旗風”を出でて今年の雪に会ふ豊橋駅前大通りかな

                        † 酒旗風=飲み屋の名前

 

花束のごとく酒瓶提げて来し酔客おのれが花となりゐき

 

泡立ちのよき酒飲んで満ち足らひ身もこころもよ泡沫われら

  泡沫=うたかた

 

泡ふたつつと合ひ寄りてひとつ泡シャンパングラスのなかに消えたり

 

ああいふの好きだよクリスマス用のシャンパン安くてお菓子みたいで

 

いまひとつ禁忌あらばや正月の酒の肴に不足はなけれど

 

こおおおと沸きたるお湯に徳利をしづめて目守る夜の一手間

 

寒き夜を帰りきたれるものの目に徳利は映るその真ん真ん中

 

それもこれもみな酒を旨くのむためぞだいだいを採りに庭へ下りたり

 

馬鈴薯をむくあひださへ壜ビール冷えて冷えて冷えてゆくかな

 

ああ五月キリンラガーの中壜を大壜にして陣組みなほせ

 

きぬかつぎ空豆枝豆冷や奴芸者揃へて飲むがごとしも

 

きき酒といふ語のあれば酒をのむときはしづかであるべかりけれ

 

夏の夜のしじまとはこれ氷片がグラスの谷に小揺るぎをすも

 

本日は底深からぬ日なりけりそそぎこみたる酒二合半

 

わが裡のさむきところに傷ありて酔ひてし見れば雪渓のごとし

 

冷蔵庫開閉その間コンマ2秒にがき酒盗をとりだしてをり

 

猩猩があびるほどのむ“酔ひざめのおいしい水”のああ一斗樽

 

1997/5/26

                
──酒百首 了──                   

©1997 KOIKE Sumiyo

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