2025年5月6日火曜日

縞馬家集の棚 3 桜百首

  

  桜手帖sakura note]                 

   近くにある桜並木のデッサン

 
1997317日~417



 

3月17日

昨年たしかに桜の咲いた並木の木末が、蕾もないのに目立ちはじめる。

 

花どきをいま待ちながらあかあかと

小枝の端はにほひそめつも

 

桜の芽あからみにけり

この春も怒るかはりに笑まふ君かも

 

桜木の繊き小枝のみつみつと

空に陰阜を描きてをりぬ

 

昨年の春はいかにか過ごしけむ

思ひ出だせぬ真白のさくら

 

木のもゆる春来たりけり

枝枝をふき出づるとき桜はほのほ


 

3月18日

一昨日の雨を受けてか、木の芽がふくらみ、緑いろを帯びてきた。

 

春さればよみがへり来よ

しらしらと

顔を持たざる英の霊

英=はなぶさ

 

同じ花

幾千万をあつめてぞ

さくらは春を流れて速き

 

天空ゆ

降りくるものをとどめにし枝の芽吹きは

しづくにか似る
 

 

3月19日

湿り気のある雲が木末の背景にある。今年は雪もふらずに春になつた。

 

さきがけて咲く小手鞠の

なかなかに散らず桜にゆずらぬ気配

 

花のなき桜の枝はほそきゆび

祈りのためになにも持たざる

 

口きかばつよき一言吐きぬらむ

つんと角ぐむ桜花の芽

 

吽吽と幹が息んでゐるさうな

魚卵のやうに花を産むもよ

吽吽=うんうん

 

桜木のさ枝ほそ枝ひろごりて

ゆふべの天に投網を放つ
 

 

3月20日

曇り日。乏しい陽光が行きわたり、そこここに薄い影をつくる。

 

さくら木にさくらの芽ぐみ

木の末のいやすみずみに

さみありてあはれ

 

空ゆるぶ

そのくちなかにふふみたる

桜新芽のにがさにゆるぶ

 

乳白の雲はさくらか

ひとひらも散らぬさくらの

すばらしき嵩

 

くちばしのごとき新芽が

乳いろの空をつついて

暖をうながす
 

 

3月23日

雨ふる。気温が数度さがるごとに桜の開花が遅れるといふ。

 

隣りあふたのしさよあれ

さくら木に蕾の早き木と遅き木と

 

やがて咲く花のつぼみの拳かな

一斉に其をふりあぐるなり

 

三日ほどいいさ余裕の後じさり

時もつぼみもいささの凍え
 

 

3月25日

花粉症佳境に入り発熱。桜の木見にゆけず。

 

万緑のなかにあらねど

生えそむる歯のごとくあれひと重の桜

 

花どきの熱に潤める部屋ぬちの

もろもろはみな根を張りてをり

 

みどりごの口にぞふさふつぼみなれ

乳白の花あふれさすため
 

 

3月27日

関東平野のそこかしこ桜とか。

雨中、わが町の桜は如何にありぬらむ。

 

銀行に

さくら・あさひの生れしより

やはらぎそめし国ぎほひかな

 

夜深く

春のいかづちとどろきぬ

桜の花のひらきそめしか

 

冷えとほりたるわが窓に

雨粒の

さくらの花のごときふくらみ
 

 

3月28日

やうやく外出。桜はすでに紅いろの蕾。ほころんでゐる枝さへある。

わたしに黙つて勝手なことをしたね、といふたぐひの憤りを覚える。

 

白く咲くさくらの花は粛々と

あしたの空を割りはじめたり

 

とどこほる感情ありて花つぼみ

泣き出すまへのくれなゐの濃さ

 

生き物としてはどちらがおいやかな

花と蕾がこもごも問ひ来


 

3月31日

家籠もり続く。桜はとつくに花の木になつてゐるだらう。

桜花即時的写生手帖の連作計画はすでにぼろぼろである。

 

三月の空は薄ら氷

枝枝にはりつめてのち

花と砕けぬ

 

敷島のやまとをとめのうつしみを

洗ふ潮泡

白桜花

 

満開の桜木は母衣

わがまほら

はらからどもとうばひあふべし



 
4月2日

桜は満開らしい。昨夜、人から夜桜の話を聞く。

 

桜木の咲き連なれる沈黙に堪へがたくして人は酔ひしか

 

幾重ものうすき花片を身に帯びて咳き込みたくはないか桜よ

 

桜花朦々として立ちのぼりあはれ四月は朧に明くる


 

4月3日

桜並木の横を歩く。人もあるけば桜にあたる。

 

天空に時の波濤のとどまれるごとくに咲ける山桜花

 

四月にぞことのはじめを定めたるそらみつやまとそらみつさくら

 

しらしらと花の波濤のうちよする渚となりぬ桜咲く丘

 

生まれつつ死にゆくものは桜花その花色のうすきにすぎて

 

桜咲けど咲けど増えざる花の嵩熱高き夜の夢に見たりき

 

桜木の下にかぎらず屍にかぎらずなんぞ土は蔵せり

 

咲き満ちてのちを桜のはなびらがセラヴィセラヴィとおちゆくばかり
 

 

4月4日

桜、こらへ性もなく散りはじめる。

 

中空に身を横たへて桜木の枝はしづかに死を吐くごとし

 

きはまりて花きはまりて咲きたるをすこしづつ死へ移りゆきたり

 

上枝にも下枝にもいま死のやうな幸福が来て桜咲きたり

 

白桜咲いて四月は大天使そこにかしこに翼をひろぐ

 

遠くまでつづく桜に沿ひゆけばしんしんと死のちかづく心地

 

やうやくに咲きそめやがて重なりて花咲く頃の疲れ薄墨

 

万愚節ことしは嘘をつかざりき桜が嘘のやうに咲くゆゑ

 

君知るや四月の風は煮詰まりて桜の枝に結晶するを


 

4月7日

窓から見える公園に、山桜が咲いてゐるのを見つけた。

 

ほろ酔ひの桜の幌にゆられつつ聞かばや花のその子守唄

 

目を伏せてうつくしきこと言ひつのるごとくに咲ける雨中の桜

 

真つ直ぐに地を指すべしと花びらをつつんで落ちる雨の好色

 

夜に聞く雨ゆたかなりそのなかに桜の花をうつ音あれば

 

かはたれのかたまりなれど明けぬれば人寄りてそは桜となりぬ

 

わが怒り軽くしあれば君が背に花ともそそぐ雨ともながる

 

帰りゆくひとのせなかに夜桜のはなびらほどの雨つゆの染み


 

4月10日

雨後の桜はこざつぱりとして、尋常な花木にみえる。

 

わが上に咲く桜花蒼空の快楽を隠す惨たる真白

快楽=けらく

 

雨を得てかそけくにほふ桜花からうじて世になまめきそめつ

 

咲くときは咲き散るときは散る桜花夜であらうと散るときは散る

 

天の水のみくだしける桜木の幹ののみどは渇きてをりし

 

夜をこめて桜の髪をかきやりし櫛なるや雨とほりよき雨

 

桜舟大きなる帆をはりて来よあしたわたしの眠りの岸へ

 

花びらの出自は問はね問はねどもさぶしきほどにかたち異なる

 

あくがれて落つるうかれ女はなびらがけふ何千となくうかれめが

 

さめざめと泣くのでもなくしとしとと降るのでもなくはらはらと散る

 

あらかじめまたおのづからある線に沿ひて散りゆく桜ひとひら


 

4月12日

よく晴れた土曜日。

 

休日の朝のひかりのかたまりのサクラ印のはちみつの壜

 

小学校男子制服金ボタンさくらの型の圧されてありき

 

花女さくらふぶきの彼方よりあらはれ人を殺さで消ゆる

 

燃えやすきナイロンコート着てあるく花のさくらの並木の通り

 

桜紙なるうす紙のありにけりよろづのことに用ひたりけり

 

桜餅七つ食らひてなほ嘆く青春小説登場人物

 

お互いがおなじぐらゐに冷たくて桜と月は親和せりけり

 

ひとつづつかなしきことを取り落とすごとくに散つてゆくさくら花

 

ひといろに咲くさくら花ひといろのひとつ思ひがすこしづつ散る

 

なにをしに此の世へ来しかさくら花答へのごときはなびらを掃く


 

4月14日

若葉が花の残骸を駆逐する。

 

脚たたば夏へと走り出すものを桜若葉はかく気負ひたり

 

萌え出づる桜若葉はやはらかくつよくあたかも火のあねいもと

 

さみどりといへど若葉は影濃ゆし言の葉として生まれ来しかな

 

馬の群どどと近づくここちして桜若葉の増えゆきにけり

 

樹は燃えてゐるかと問へばしかりとぞ桜若葉はみどりのほむら

 

王朝のうつりかはりを思はしめ花のゆふべに若葉のあした

 

極端なところのあればつきあひはほどほどがよし四月の桜

 

花と葉とほほゑみあひてをりしかどやがて葉のみとなる山桜

 

ぽちやぽち枯れ木に花が咲きましたそしてやつぱりちりましたとさ

 

その節はうすべに此度はうすみどりあらゆるいろを含みてさくら


 

4月16日

桜の歌拾遺。

 

ははき星ちかきこの年流れゆく速さで桜咲いて散るなり

 

花どきの心中小説死屍二体犬にも蛆にも食はれざりけり

 

ものぐらき春の夜明けにひとつきりかがやきてある思ひ出桜

 

桜には思ひ出がない思ひ出がないから咲いて散つてまた咲く

 

ありにけり花のにほひのする煙赤い袋のたばこのチェリー

 

噫つひに吾は花木となりにしか夜来盛んに熱の花咲く

噫=ああ 夜来=よごろ

 

天の河地に横たはりゆれてゐつ仮の宿りの桜の苑に

 

花影のめぐりかすかに風立つを春銀漢のにほひと思へ

 

乳色の花あふれたる敷島のやまとは春の銀河なるべし

 

右の桜ひだりの桜手をあはせ祈れるごとく道つづくなり


 

4月17日

昨夜雷鳴。やや遅れてきた花客は霹靂神であつた。

 

夜の雷とどろきにけり桜花満開の音あらばこの音

 

花どきを過ぎてのふつか夜の空にあな花いろのうすき雷雲

 

いかづちは空の桜よつぎつぎに蕾弾ける光の枝よ

 

春雷のとほき馨りや咲きのこる桜一輪ほどのとどろき

 

──桜百首 了──

©1997 Sumiyo KOIKE
 

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