2025年5月1日木曜日

縞馬家集の棚 1 桜桃百首


 

桜桃百首

autau hyakushu

 

 

制作19968
           

 

この夏、桜桃の歌あまた出で来れば。

いますこしわすれてゐたきことふたつ桜桃みづにしづみて浮きぬ

 

桜桃が産むふたりごは桃次郎桜太郎ぞ頬ひかる武者

 

さくらんぼほどなこどもに生まれたし寿命みじかく兄弟おほく

 

桜桃の種子はひだりの頬のうちわれのみの知るわれの幸福

 

あらそひののちを模写して木の桶の水に桜桃百顆浮きゐつ

 

流水に桜桃あらふ 桜桃は水と逢ふときよろこびにけり

 

消息は二行と三文字桜桃の酸ゆきがほどのつきあひぞよき

 

さくらんぼくちにまろばせゐるここちさくらんぼとはあたりよき音

 

桜桃にはつかなる意地ありしかば歯をあててなほ惑へるしばし

 

桜桃の種子なげすててのち小雨かそけきかなや種蒔きの快

 

桜桃はふたつ一組なるがつねつねなるよ実のどちらも光

 

たよりなき桜桃の味いかな味ここな味この十顆取り召せ

 

ちひさかる秘密ありしか桜桃の実の一粒は腐り初めつも

 

桜桃のなかに灯れるあかるさのいのちを惜しみ惜しみて喰ふも

 

果物を食べるとは往往にして

その種子を吐くことである。

桜桃の桜桃たりしくるしみのちひさき種子を噛みあてにけり

 

ねぶり果て種子を吐くとき桜桃のいのちあらはになりにけるかも

 

桜桃のうすき果肉につつまれし種子の偉大は可憐にあらず

 

桜桃はわがくちなかの黄泉に来て身をほろほろとぬぎはじめたり

 

 

 

涙からつぎの涙のときのまの桜桃の黄は澄みてをゆかな

 

青嵐すぎたるのちのうるみなき光となれり実桜その実

 

なにか欲るここちたとへばつめたき火この世ではそれ桜桃酒とかいふ

桜桃酒=キルシュ

 

かなしみのふるさとはどこ降るほどに桜桃のなる村にやあらむ

 

一斉にみのりしものを桜桃のあれこれ序列なく落ちはじむ

 

ややかたき桜桃ほどにかなしきといへばたちまち熟したりけり

 

どんなにか厭であつてもさくらんぼ種になつてもでもさくらんぼ

 

スサノヲのとほりしあとはなにも無いことはなくつて桜桃づしり

 

おもひだしたくなくわすれてはならぬことどもいくつ桜桃ふたつ

 

偏愛はついと来てまたついと去る二十日ばかりの桜桃皇子

 

ふりふぶく花のさくらのあなすゑの桜ん坊は風の蔵人

蔵人=くらんど

 

さくらんぼ去ればわするるさらさらにさくらの花もわすれゆきたり

 

桜桃にまたがりてゆけ少名彦夏のひかりのつかのまは馬

少名彦=すくなびこ

 

桜桃の果肉の宙に星ありぬ傷ともいふがいまは星と呼ぶ

 

わが口にくちびるありぬ舌ありぬ桜ん坊のまろぶさきざき

 

さくらんぼこれよりちさくもおほきくもなきうまれつきさくらのこども

 

桜桃をなぶる風さき六月の風はすずしき舌にかあらむ

 

疑問符のかたちの鈎に桜桃を刺して釣りをりゆめの岸辺に

 

 

 

六月、水無月。十月、神無月。

いろいろ無いのがうれしい暦。

桜桃がどつと現れどつと去る嵐ありけり水無月なかば

 

すべからく済みたるのちを澄みとほり澄みつつ赤むさくらの木の実

 

さくら木がいのちをそそぎ満たしゆく小壺小壺のさくらんぼかな

 

桜桃の弾丸こめて撃ちしかば彼奴の胸にぞ桜噴き出づ

彼奴=きやつ

 

桜木に馬をつながむ荒馬を 実桜降らせ星ほど降らせ

 

名にし負ふ桜庭五月の朋ふたり 霞弥生と水無月夏実

桜庭五月=さくらばさつき 霞弥生=かすみやよひ 水無月夏実=みなづきなつみ

 

みどりごはねむりふかみににほひたりさくらんばうのねむりふかかれ

 

実と花のどちらがさきと問ひたれば実がすきといふ青空返事

 

民族の花の祭りを嘉しけむ桜桃の実のうすき黄のいろ

 

さくらんぼ空の高処ゆ堕するとも満地浄土と心得て候

候=そろ

 

『卍』に出てくる封筒や便箋、

どこで売つてゐるのであろ。

封筒の桜桃の絵に及びつつ息を吐きけむ谷崎の筆

吐=つ

 

桜桃は心のかたちふたごころこころごころをそよろとゆらす

 

まぼろしにうそとまことのふたとほりあるんださうな黒き桜桃

 

なにしかも桜桃に名をたまひけむ仏蘭西の地の将軍小兵

 

いかさまにおぼほしめせか盤面に王将のふりの桜桃がある

王将=キング

 

 

 

 

折句「さ・く・ら・ん・坊」

さくらん坊苦界をおほふ楽天に「んだ」とうなずく坊主のつむり

 

折句「ゆ・す・ら・う・め」

ゆすらうめすらすらと書く落書きに嘘ひとつなし目をふせて書く

 

アナグラム「さ・く・ら・ん・ぼ」

ぼんくららさぼらん凡句腐らん句ぼくらランボーさらさら去らん

 

口紅のいろの好みは冬のいろチェリーピンクを着くることなし

 

桜桃を容るるにぞよきポケットをわれはも持てり上着の胸に

 

さくら散りさくらんぼ落ち雨ぞ降るこのテーブルに清酒もがな

清酒=すみざけ

 

桜ん坊喰ひ足りて酔ふ黄牛のありにけらしな若き亜米利加

黄牛=あめうし 若き亜米利加=アーリーアメリカ

 

桜桃が熟するころの雨ほそみわかい女が夏へとあるく

 

雷雲の累累とある満天の下の桜桃やはり累累

 

西方ゆゆらり雷公現れてさくらんばうを草にころばす

 

霹靂神ざと来てこぼしゆきしのみさくらんばうが地にちりぼふ

霹靂神=はたはがみ 地=つち

 

水晶は解けない氷桜桃は朽ちる紅玉愛しきぞいづれ

愛しき=はしき

 

なにせんにかく為るものぞ桜桃が五箇一列に置かれてありぬ

為る=する

 

遠つ世のぺるしあ人が鹿を狩るいまも狩る皿 桜桃盛らめ

 

桜桃に遊び足らひてねむれりし女の童べかつて雉鳩

女の童べ=めのわらはんべ

 

桜桃は与謝蕪村にぞ詠まるるが好けれ好けれど其の句を知らず

好けれ好けれど=よけれよけれど

 

 

 

ほらふき男爵の鹿は額に桜桃の木を茂らせて。

恋人を呼ぶ口笛のなごりかも桜桃の木に桜桃実る

 

桜桃のひとつひとつに臍ありぬ木とつながりき地とつながりき

臍=ほぞ

 

ほほばれば涙しあふる桜んぼひとつぶのぶんあふれゐしかな

 

桜桃の種吐き捨てつ吐き捨てつ捨て捨て捨てて生のあかるし

 

「あんたはんようけくるひなはれ」といふ桜桃前列右端のひとつ

右端=うたん

 

さくらんぼ円きともしびほのぼのとしかしすばやく朽ちてかゆかむ

 

ほんたうはさくらん坊は鈴の音凛凛でも凛でもない鈴の音

凛凛=りり 凛=りん

 

いにしへの林檎大王桜桃を千の兵馬に変へてそれきり

 

わが口に来よさくらんぼわたくしを魔神よばはりしてもいいから

 

ひとつづつ食はれる怖さ否これは孤をよろこんでゐるさくらんぼ

 

大粒で大甘そして山盛りのダークチェリーのせつなさぞよき

 

首天使の羽根つけて飛べさくらんぼ赤もきいろも黒紫も

首天使=セラフィム

 

種子埋めて芽生えし試し今になし桜桃などはこれで四度め

 

誇りかに桜ん坊は語りけり雪ふるさとの空気のことを

 

酔客の笑みがころがりゆくところ支那実桜の身のおきどころ

支那実桜=しなみざくら

 

胸ふたぐ思ひを此処にとりださば桜ん坊の種子にかも似む

 

 

 

桜のことを夢見草ともいふさうだ。

きがかりな夢よりさめてまた夢む繚乱たりし桜桃の枝

 

浮きてあれながれてもあれさくらんぼゆめのまにまに溺れてけりな

 

夢見草のゆめのみのりの桜ん坊おのれを夢と知らずみのれり

 

むつつりとくろき桜桃ちひさけど幾代のそらに咲く花火玉

 

みどりごのさくらん坊よ汝が母はかんばせふせて嘴を待ちゐき

嘴=はし

 

六月のながき手紙をしめくくるさくらんばうの一筆書きで

 

ねむりつつ死へとびこめる桜桃の熟落の音はいかにかあらむ

熟落=ほぞち

 

子より親親よりも祖が大事なれ捨つるな今日の桜桃のたね

 

桜桃や死んで花実が咲くものか花は見るべし実は啖ふべし

 

桜桃も林檎も砂糖で煮て食す鴎外の癖歴史好みの

癖=ヘキ 好みの=ごのみの

 

チェリーパイ一切れくはへてたちあがるはずのつもりが泣き出だしたり

 

崩さずにチェリータルトを食べをへて男しづかにフォークを置きぬ

 

六月の心中完遂事件かな桜ん坊のあいつとそいつ

 

晩春の或る夜あまたの美童らがのぼりし幹は桜桃の幹

 

耳たぶとゆびの根もとを飾るにはさくらんばうのおほきさが佳し

 

桜桃の艶をひしひし詰めて佇つふくろなるかなからだとこころ

 

夜半来夢とどろきてつらぬきて桜桃大の朝日子生るる

朝日子生るる=あさひごあるる

 


桜桃百首 了
 

©1996 KOIKE Sumiyo    

  

公開最新

歌と漢詩を巡る小文

切片少々