縞馬家集の棚 10 食百首
††† 1998.6.1. 朝朝といへば海のものこそ恋しけれ鮭の切り身の東雲ふたつ 澄みとほることあるまじき味噌汁のこの混沌を拝みまつる 拝み=をろがみ 方言のごとくに残りあはれあはれ夏のキャベツの糠漬けの糠 日常の食器は白と決めたれどその日常の白ぞさぶしゑ 食卓に置かれて朝の新聞は過ぎてしまひしものを語りぬ 昼昼食といはばいふべしHERSHEYのキスチョコいつつと珈琲二杯 晩缶麦酒よく冷えてあり壜麦酒よく冷えてあり六月朔日 空豆の時代は過ぎて枝豆の時こそ来つれ同じ絵皿に はまぐりの殻にたまりて雅致あれどあれど醤油はきみ呑むなかれ この人はおとななればか些かのへんなにほひの茗荷を食めり ††† 1998.6.2. 朝あれもこれもからだによしといふものを味噌汁にいれさらにいれむとす 納豆の鉢に縮緬雑魚をいれ鶏卵をいれあふれしむるべし 朝日子ののぼる力を思はしめ明太子あり太き一腹 昼音たてて啜ればまひる盛蕎麦をたつたひとりで喰ふあほらしさ ひるひなか蕎麦啜りゐるひとひとり袖黒鶴と云へぬ由無し ていねいに蕎麦湯も呑んでひとりごついふことなくてああうまいとぞ 世の中にわたしのくちはひとつきりなにを食べてもだれと食べても 晩よきものは稚き鮎と嫩き豆初夏晩餐の麦酒友だち稚き=をさなき 嫩き=わかき こまごまと串につらなりをりたれどこれ鶏鳥の群肝なりし 鶏鳥=くたかけ 群肝=むらぎも この人はやはりおとなか奇妙なる香り一本セロリを食めり ††† 1998.6.3. 朝朝摘みの若布に鳴門と陸奥のあればけさは鳴門の若布を吾は 佃煮といふものになりわかさぎはどこがわかいといふべくもなく 釘のごときさかなを口に二三本朝の大工のやうに前向き 出汁巻きに大根おろしに橙の酢をしぼるなり段取りどほり 昼あたたかきものをたのんで二分ほど梅雨に入りたる午後をたのしむ 濛濛とたちたる湯気はかりそめのわがどんぶりに盛んなるかな 小雨には小雨の情緒どんぶりのつゆ一面に柚子七味ふる 片側に壁あることに落ち着きて蕎麦屋の蕎麦を啜りをりけり 夜一日の終はりにわれは塩強きうなぎの骨を噛みくだきをり この人はおとなであればびしびしと谷中生姜の瘤を齧れり ††† 1998.6.4. 朝昼一日夜一夜なほ吐きやまぬ蜆の砂の黒さなにゆゑ かすかなる泥のにほひも粋のうちちひさき貝の肉を啜れば 「蜆千より法螺貝ひとつ」『譬喩尽 七』味噌汁を呑む鼻先になだれくる蜆貝この豪奢なる音 昼「琥珀は塵を吸ふも穢れを吸はず」『諺草 古』 乞食といふ飲食のありやうを思ひぬ白湯に蜜をとかして乞食=こつじき 白湯=さゆ やうやくにわれは世慣れて若鮎をあたまから喰ふこともおぼえて 晩酒一合二合三合四合ののちは五合か絶巓か知らず 逃げ水はそれ夏の季語これやこの酒は消え水これ季節なし この人はなぜなのだらう山盛りの生の三つ葉をたひらげにけり ††† 1998.6.5. 朝昨の夜食べそびれたる蒲焼きを今朝の今朝にぞ啖ふうれしさ昨=きぞ 啖ふ=くらふ 活発にうごきをりしがこのうなぎいのちのいの字も描きをりしが かの暗き独逸映画にのたうてる鰻最もくらきかがやき 山椒のいのちうなぎの真いのちをこきまぜてわが国内のいのち 国内=くぬち きも吸ひの澄みたる底にきもといふ変なかたちの大切なもの 昼牛乳をわれは愛して朝に日によみがへらする嬰児のこころ 白乳を垂らせば紅茶は曖昧な涅槃に入りてねむりそめたり 晩砕かれて挽かれしことのうつくしく香辛料の壜の棚かな サフランの黄をもとめてくれなゐのサフラン五瓦あがなひにけり 黄=きい 瓦=グラム 菠薐草を食べると血が増える[播州赤穂地方の俚諺]かの国の戯画といへども信じゐき菠薐草の万能力を ††† 1998.6.8. 朝今日もまたきのふのやうに朝が来てきのふのやうに飲食をすも 大きなる手を待ちつつぞ乾きゆく一塊の麺麭卓布のうへに 麺麭=パン ゆるゆるとなにをゆるすといふのでもなく皿の上の一切れの牛酪 牛酪=バタ 薔薇色の塩漬け肉に凝りたる白き脂の帯のかがよひ 左右の手のナイフとフォーク重ければうち鳴らしたくなる朝かな 朝=あした 珈琲は濃くどこまでも濃かるべし朝がどすんと夜になるまで 昼しろき鍋にしろき卵をしづませてしづけき昼の火に包みたり ゆびさきに塩粒堅しまひるまの群星は吾が摘みゐるなり 群星=むらぼし 夜夜の皿にくだものの皮くだものの種ありてあはれ さ身なくてあはれ 水びたしになりて食ひたしお隣りの惑星ほどに大きくだもの ††† 1998.6.9. 朝一日を桃のごとくにきりわけて朝の部分を残さず食ぶ 食ぶ=たうぶ 一日を桃のごとくにきりわけて残れる種の大如何にせん きりわけて舟のかたちの桃や桃いづくの海へ出でむとすらむ 曇り日のよきものひとつ牛乳に身をひたすがによきこころもち 昼今朝そらは心ゆくまで啖ひしか乳汁のごとく雲のながるる 明晰をわれは欲して assam を曇れる空の下に飲みたり † assam=アッサム地方の紅茶。 晩わがうちの水が水欲りわがうちの血が血を欲りて飲食は海 わがうちの酔ひが酔ひ欲り奥深く“眞露”の壜に吸ひこまれたり † 眞露=焼酎の銘柄。 すずめ二羽いなご三匹蔵さめてぞこの人の胃は夏の野となる蔵さめて=をさめて しほづけのさくらあをばに鎮座せる水羊羹はにつぽんの梅雨 ††† 1998.6.10. 朝さびしくてさけぶ雛の喉奥に蚯蚓や飛蝗などが運ばる雛=ひひな 蚯蚓=みみず 飛蝗=ばつた 昼さあ生きて生きてちやうだいわたしの子なんでもお食べたくさんお食べ 食べて食べて食べてちやうだいおまへたち吐くほどお食べ死ぬほどお食べ 食べて食べて死ぬまで食べていきものは食べねばねばねばねばなりません 夜おかあさん、わたし食べたくありません雨かなにかになつて落ちたい おとうさん、そらから落ちてくる雨がわたしの永久のおとうさんです 永久=とは 雨がのみたい雨がのみたい全身に口百箇開け雨がのみたい ††† 1998.6.11. 朝しあはせな朝の食卓果物の尻のしづくや珈琲のゆげ 草づたふ螢ほうたるみじかかる虹のみどりを齧るなよゆめ 昼熱燗を昼の蕎麦屋で飲むまでにまだそこまではかなしくなかろ 生粉打ちの蕎麦たくしこむわかもののどこか不遜なところがよろし生粉打ち=きこうち 死にたしと思はぬおとななどをらぬ。鰹だしです、蕎麦屋のカレー どんぶりでカレーライスを喰ふことのなにわるからうこの国につぽん 晩好ききらひひとつもなくてほんたうに好きなものなどなにもなきなり 焼酎を活力として呑みしかどその活力は眠りに注がる ††† 1998.6.12. 朝飲食はこれ性愛の原初ゆゑ朝昼晩をしつかり喰はむ 喰はるるといふは性の喩ちからの喩喰はれてもなほ生きてもの喰ふ ひとつづつ世界をわたしのものにせむ今朝はひとまづ甘瓜を食む いただきますとごちさうさまのその間にさしあげますの入る余地なし間=あひ 昼
野毛山動物園
ひそひそとものを喰ふ音ばさばさともの出だす音こもごも響く いつぽんの雨とほすがに紅鶴はましろきふんをまつすぐに垂る 大いなる食の環に身をつらぬかれわたしも踊るロンド、お、ロンド環=わ 晩腹のなかに雄の孔雀がねむりをり真昼わが目に呑まれし孔雀 ††† 1998.6.16. 朝生きたくて生くるならねど食ひたくて食ふこの朝の飯のふつふつ飯=いひ 薄明ののち澄みとほる朝光のいろにまみれて飯食ふわれは朝光=あさかげ 飯=めし いましがた詰めこみにける白飯がおもむろにわがわたくしを着る白飯=しらいひ 茶畑の重きうねりを見てきたる目にて飲むべし川根藪北 † 川根=茶の名産地 藪北=茶の種類 昼フリカンド或いはフーカデンともいふ風花伝とぞしてしまひたれ † フリカンド=fricandeau フランスの挽肉料理。 天火ひとつそなへてわれは太陽の片腕となり色草を焼く オリーヴの油に葡萄の酢を垂らし彼のかなしみも濁らしむべし彼の=かの 晩うちなびく草の族にあかねさす大王として味噌座したまふ族=うから 大王=おほきみ 座し=まし 味噌鍋の具をひきあぐるひきあぐる大団円のさびしさぞこれ ††† ──食百首 了──
©1998 KOIKE Sumiyo